「体罰はなぜいけないか……?」「……それは効果があるからです」
新米教師だった僕を育ててくれた先輩が教えてくれた。
以来、この言葉の持つ意味をことある毎に人に伝えてきた。
昨日の浜北特別支援学校の先生達にも、このことについて触れた。
そして、更に付け加えた。「苦痛や恐怖心は本人の思考をとめてしまいます」と。
体罰や威圧は、痛みや恐怖により相手の行動をコントロールする。
そして、身体的な痛み以上に、心に深い傷を彫りつける。
何よりも恐ろしいことは、加えた側は、痛みを理解できないことだ。
必ず口にする。
「そんなつもりはなかった」と……。
何故自分が怒られているのか? その理由を考える前に、怒声が浴びせられる。
身体は硬直し、相手が思うような行動に移せない。
相手はイライラし、更に怒りをエスカレートする。
ただ、ただ、恐い、という感情しか生まれてこない。
注意ではなく、感情をぶちまけているだけ……。
一度染みついてしまった恐怖心はなかなかぬぐい去ることはできない。
何かあったら、また、怒鳴られる! たたかれる! そんな思いにしばりつけられた心を解きほぐすことは、とても難しい。
相手の心からの謝罪と、二度と自分を傷つけないという保障と安心感。
それが伝わってくるまでは決して心の傷は癒されることはない。
子育てをする中、ことある毎に我が子が傷つけられる様をつきつけられてきた親にとっては、「またか!」と心を固く閉ざしてしまう。
本人もつらいが、傷つけられた我が子を見つめる親も、また、たまらなくつらいのだ。
そうした傷つけられた人の思いは、どうしたら伝わるのだろうか……?