関係各位

特定非営利活動法人くらしえん・しごとえん
代表理事 鈴木修

 去る9月1日に突発性の血栓症血小板減少性紫斑病のためご逝去されました髙草志郎様のご葬儀のご連絡です。
 ご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。

日時:前夜式 九月七日 午後六時から
   告別式 九月八日 午後十二時半から
場所:京急メモリアル金沢文庫斎場
   (京浜急行線金沢文庫駅より徒歩一分)
   神奈川県横浜市金沢区谷津町三八四
   電話:045-784-9833
   ファックス:045-784-6919
喪主:髙草惠利 髙草雄士
 
 ※コロナ感染予防対策のため マスクの着用をお願い致します
 ※ 駐車場には限りがございますので 近隣の駐車場もあわせてご利用ください

 お昼前、東京から連絡が入った。
「髙草さんが昨日の夕方、亡くなりました」とのことだった。
 一瞬何のことかわからず、思考が止まり、言葉もなくしてしまった。
「詳しいことがわかりましたら、また連絡します」と電話が切れた。

 夕方、ご子息から連絡があった。
「父の手帳をみていたら、鈴木さんのところの予定が入っていたので…」と。
 10月の養成研修の講師の事だ。
 髙草さんが「仕事を手伝ってもらっている」と浜松に連れてきた際、三人でウナギを食べに行ったことが脳裏をよぎった。
 親子で同じ仕事に向かっている姿を羨ましく眺めていた。

 昨日の午前、少し体調が悪い、と言う状況だったのが、病院に行き容態が急変し、そのまま亡くなられたとのこと。
 ついこの間も、養成研修の事で話をしたばかりだった。
 農福連携の事で力を貸してほしいから、今度詳しく話をしたい、とも行っていたのに……。

 髙草さんとのつきあいは、2011年、髙草さんがひなりの社長に就任してから始まった。
 特に社長在任中の5年間は、実に多くのことを話したし、一緒に現場を共有した。何よりも「企業」の厳しさや考え方をたくさん教えてもらった。
 ひなりをやめ、一般社団法人ノーマポートを立ち上げた後も、法人の理事として、また、養成研修の講師として、年に何度もお会いし、電話で連絡をとっていた。

 遺されたご家族の悲しみはいかばかりかと思うが、それ以上に髙草さんはさぞかし無念であったと思う。

 もっと色々なことをやりたかっただろう……
 まだまだ色々なことを教えてほしかったし、一緒に新しいものを作り上げたかった。

 痛恨の極み……。

 ただただご冥福を祈るばかり……。

2015年6月17日 ワークサポート課の研修の一コマ
2019年10月27日 職場適応援助者養成研修(岐阜)にて

 色々な場面で「怒り」を覚えることがある。
 ジョブコーチ支援の現場では、どちらかというとその怒りを飲み込む事が多い。
 そして、その「怒り」の持って行き場や処理の仕方に悩み苦しむ。

 逆に、一方的に「怒り」をぶつけられることもある。
 いきなり「がツン」と頭を殴り付けられる。全く予期もしていない、不意打ちである。
 その場では、相手の怒りの本質も分からずに、とりあえずは怒りを拡大しないように「すみません」と頭を下げる。
 しかし、時間が経つにつれ、なぜ、怒りをぶつけられないといけないのか、どうしても納得できない時がある。もっと言えば、すみませんと謝った自分自身に腹が立ってくる事もある。

「『怒り』というのは、理性で考えないといけない」
 まだ若かりし頃、尊敬する先輩が教えてくれた。
「怒り続けるには『理性』の力が必要」だとも。
 どこまでがその人の言葉だったのか、今でははっきりしないし自分なりの付け加えたものもあるだろうが……。

 すぐに消えてしまうような「怒り」はそれは自分の単なる感情の爆発でしかない。何度も何度も自分の怒りの正当性を考えていくうちに、自己嫌悪に陥ることもたくさんある。
 後になればなるほど、その怒りが増幅していく場合もある。その時は、何に対して自分が怒っていたのかが、だんだんとずれてくることがある。
 そして思うのだ。「これは怒らなければならないのだ」と。
 一呼吸おくどころか、1日2日その「怒り」を心の中で転がし続ける。
 全くもって不愉快な時間だ。
 それでも怒らなければならないことである、と思った時には、しっかりと「怒り続け」ないといけない。
 しかし、往々にして、怒り続けることに疲れてしまい、いつの間にか自分の中でウヤムヤにし、「そんなことで怒ってもなぁ」と怒りの収めどころを探していることの方が多い。

 感情を表すことはよくないことではない。
 怒りはとても大切なんだ。
 
 だからこそ、その怒りと付き合う術を自分の心の中に培っていかなければいけないと思う。
 何でもかんでもウヤムヤにする、曖昧にする、表面的な「笑顔」」でごまかすことが多い今の社会。
 逆に、所構わず怒りをぶつけることが多い今の社会の中にあってこそ、だ。

 と、こんなことを書いているのも、理不尽な怒りをぶつけられた、という話を聞いて、腹が立って仕方がないからなのだ。
 落ち着け、落ち着け!
 そう自分に言い聞かせるかのように今、iPadの画面に向かっている。

 深呼吸が必要だ。

 正体のわからない感情と向き合うことの難しさ。
 それはとってもしんどいことだし、怒りや悲しみ喜び……、そうした感情は簡単にわかるものではない。

 それでも、そうした複雑な気持ちを丁寧にすくい上げられる両手を持ちたい。

 日曜日に事務所にやってきた彼はいたって普通の青年だった。
 礼儀正しく、話し方もしっかりしていた。高校を卒業し一般企業に正社員として採用され、6年になるという。
 先週事務所に電話が入り、「発達障害と分かって会社に伝えたら、契約社員でないと雇用はできない」そう言われたというのだった。
 とにかく事務所でゆっくり話を聞きます、となったのだった。

・部署が変わってから仕事で注意されることが増えた。
・自分自身も発達障害かもしれないと思い発達障害者支援センターに行った。
・検査をした結果、発達障害の疑いがあるということで医療機関の受診を勧められた。
・受診の結果『発達障害』と診断を受けた。
・その前後、精神的にも落ち込み、うつ状態になり1ヶ月の休職をすることになった。
・会社には、休みのことと発達障害の診断を受けたことを伝えた。
・先日、会社から「復職できるかどうか医者の診断がほしい。また、会社に戻るとしたら、正社員ではなく契約社員となることを了解してください」と言われた。

 ということだった。
 会社は産業医と社労士と相談をした上での話だということだ。
 …………
 え? え? え? え????
 途中何度か確認をした。
 これまでに仕事のことで注意を受けたことの有無や、契約内容の変更についての話し合いの有無等々。
 本人にしてみれば、何度か仕事のミスで注意を受けたことはあるけれど、ということだった。勿論本人の話しか聞いていないから判断ができる状況ではなかった。

「どうしたいの?」と聞いた。
彼は、身分の変更の事と発達障害の診断の事がリンクしているのだろうか、「会社を続けたいという気持ちは薄くなってしまった」と言った。

 差別禁止と合理的配慮の提供義務
 この資料を印刷して、あくまでも「一般論」として彼に説明をした。
 会社の負うべき義務。
 社員と会社の話し合いの大切さ。etc etc

 彼に伝えたことは
「色々と考えてしまうだろうけれど、まだまだあなたの人生はこれから。一生懸命に考えて、向き合うことが大事だよ」
「あなたの考えや感じたことは、間違っているとは思えない。勿論会社の言い分もあるだろうけれど、もし、会社に対してどう言えばいいかわからなければ、また、相談に乗るから」
「まずは、家に帰って自分で考えてみて」と。

 その日の夜、母親から電話が入った。
「ありがとうございます。とてもスッキリしたようです。自分の感じたことは決して間違ってはいないんだ、と思えたんだと思います」と。
 このお母さんこそ、10数年前にジョブコーチ支援で関わった方の母親の友人とのこと。
 今回のことを相談した時に、その母親から「だったら、くらしえんに相談してみたら」と紹介されたのだそうだ。

 会社と今週、復職にあたって話し合いをするとのことだ。
 その後、どうなったのだろう?

 頑張れ、頑張れ!
 サポートが必要だったら、いつでも連絡しておいで!

 先が見えずに誰もが不安を抱きながらの日々が続いています。
 ふと思い出した詩があります。「春について」という詩です。

「冬はむしろ ほんものを許すいい季節だ。」と。

 この大変な時代も、必ず「あの頃はね…」と語る日が来ます。
 その時、どんな自分であったのか、この時代の中で私たちがどう懸命に生きたかを語れるようになりたいと思います。

 この詩と出会ったのは大学時代。
 もうずっとずっと昔のことです。
 普段は思い出すこともありませんが、何かの拍子に突然、どこからともなく、その一節が浮かんできます。

 もう一度、この詩と出会った頃の自分を思い出しながら…。

『春について』     土井 大助

だれもがうたがうものはない。
今冬だということ。
冬のあとには春がくること。

 だが 君はしっているか。
 春はどんな顔をしているか。
 どんな歌をうたうのか。

すぎされば 青春はいっとき
人生だって……たぶん……
たしかに だまってたって春はくる。

  けれども そんな
  のっぺらな春の中で
  きみは泣けるか 笑えるか。

しゃんとした春を彫刻するなら
この冬の壁にノミを打たねば。
はればれと春の歌がききたいなら
まず この凍った土を掘りおこさねば。

  喜びの友情はにぎにぎしく
  つらいときの友情はみにしみる。
  冬はむしろ ほんものを許すいい季節だ。

ぼくらの この時代を
のちの世の人々は語るだろう。
だがまず ぼくら自身たっぷりと語ろう。

  どんな冬があり 春があったか。
  つらい冬のなかで春が
  どんなにけなげに燃えたか。

 そして 冬からはるにかけて
 青春も人生も けっして
 いっときなどではなかったということを。

(詩集「十年たったら」より)

「もういい、もういい」と眠りから覚めると、母はほとんど聞き取れない声で何度も言った。「もう、たくさん生きた。しんどいのはもういい」というのだった。先月中旬から心臓の苦しみを訴えて救命救急に搬送され、何度か持ち直すかに見えたが、母の心臓は、着実に動きを止めるその時に向かっていた。
 昨晩9時15分。母がこの世を去った。昭和2年生まれ、91歳だった。

 母は長年心臓弁膜症を患っていた。手術もせずに薬でなんとかしのいできたが、2003年、皇居ボランティアに出かけた際に倒れ、急遽東京の病院に入院することとなり、その時に人工弁の手術を行った。
「人工弁は15年ほどで変えないといけません」と言われたが、その当時は、15年後の事など考えもしなかった。
 それから、15年経っても、母の心臓は頑張って動き続けていた。
 頑張って頑張って動いてきたのだろうが、90年以上に渡って母の命を刻み続けてきた心臓は、とうとう寿命となったのだった。
「天寿を全うする」とはまさしくこういうことだろう。

 自分の近しい人の命が突然奪われるのではなく、母の場合は、その時に向かっていく時間は、自分や家族に「死」と向き合う気持ちの準備をする時間でもあった。
 特に母が大好きだった姉や、母がいなければ何もできない父などは、自分以上に時間が必要だったのだと思う。

 3月22日は、母の誕生日だった。
 誕生日を祝うことも、もう一度桜を見ることも、ウナギを食べに行くこともかなわない。
 90年以上にわたる母の人生は幕を閉じた。
 母につながる自分の人生。そして、自分につながる人生。
 あくことなく繰り返され、つながり続ける人生。
 改めて命の重さ、一人の人生の重さを思わないではいられない。

 折しも今日は3月11日。
 多くの人の命が一瞬にして奪われた東日本大震災から9年。
 今、ここに生きているすべての人の命を愛おしく思う。

 新型コロナウィルスによる非常事態。いろいろなところに大きな影響を与えていますが、私たち一人一人の行動が改めて問われているのだと思います。そのような中、学校も突然の休校となり教育現場は混乱を極めています。
 この対策の是非については、時間の流れの中で検証されることだと思いますが、今回の学校の休校に関して思い出したことが一つあります。
 それは今からおよそ30年前の1989年に国連で採択され1990年に発効した「子どもの権利条約」です。

 その一般原則の一つに「子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)」があります。「意見表明権」といわれるものです。
 今回の決定は「緊急事態」ということでの対処であり、結果的には同じ事になったかと思いますが、それでも「いきなり」ではあまりにも子どもや生徒たちのことがおきざりにされているのではないかと感じます。
「子どもたちは大人の決めたことに黙って従えば良いのだ」という発想につながっていきます。

 卒業式や終業式は他でもない、生徒たち自身のものであり、とても大きな出来事です。
 大変な状況であるからこそ、置き去りにされるのではなく、自分たちの問題として考えたり、自分たちの思いを語る機会は必要なのだと。

 2006年に採択され、2008年に発効した「障害者の権利に関する条約」。
 その時の運動のスローガンである「私たち抜きに、私たちのことを決めな いで(Nothing about us, without us)」という言葉と重なります。

 同時に、今の自分自身にドキッとしました。
「お前は傲慢になっていないか?」と……。
 そんなことを考えてしまいました。

 2020年1月31日付けでくらしえん・しごとえんの副代表理事として関わってきた小林が退職した。そして2月1日からは彼の地元にある障害者就業・生活支援センター「ぼらんち」の職員として新たに仕事を始めた。

 2014年にそれまでの福祉施設からくらしえん・しごとえんに飛び込んできたが、小林との出会いは2007年に行った静岡県から委託を受けた就労支援者への研修だった。その後すぐに、職場適応援助者養成研修を受講した。
 以来、くらしえん・しごとえんの会員として養成研修の手伝いを始め、ずっと関わりを持ってきた。

 7年前に職員の募集をしたとき、その求人を見て彼から連絡が入った。
 中部地域に暮らしている小林から連絡が入るなどとは予想だにしていなかったが、これまでずっとくらしえん・しごとえんに関わってきた彼からの申し出はとても嬉しかった。
 一方、現実的な問題としては、ジョブコーチ支援の助成金だけでは、支援依頼が入り、フル稼働しても上限が決まっている。移行支援事業所なり、何らかの事業と連動なくして財政的に成り立たないことも明らかだった。

 静岡を中心とした中部エリアでのジョブコーチ支援も、特別支援学校をはじめ、少しずつではあるが着実に増えていき、地域との結びつきは強くなっていった。
 2015年の3月には静岡事務所も開設した。( http://kurasigoto.net/?p=535 )
 しかし事業の展開はうまくいかず、結局事務所も閉鎖することになった。
 そのような中、赤字を出し続けるわけにもいかず、また、小林自身の子どもの教育費など将来的な事もあり、今回、くらしえん・しごとえんから離れる、という結論になった。
 次はどうするのか? これまで培ってきたジョブコーチとしての経験を活かせる仕事は? となったとき、縁あって地元のナカポツの職員としての仕事が見つかったのだった。

 静岡県は就業・生活支援センターの主任職場定着支援担当者が未配置の県。
 静岡県のナカポツには、要件を満たす職員がいないからだと思うが、小林は十分その要件を満たしている。
 就業・生活支援センターの課題も山積しているが、是非とも今までの雇用現場での経験を生かしていってもらえたら、と思う。
 そして、ジョブコーチとナカポツとがどのように連携していったら、地域の障害者の雇用が広がっていくのか、を推し進めて行ってほしいと願う。

 職場適応援助者の助成金だけで、法人が成り立つものではない。
 しかし、職場適応援助者を軸にこの先もくらしえん・しごとえんは独立性、自立性を担保できるようにしていきたい。

 くらしえん・しごとえんも新しい段階に入ったのだと思う。

みんな一緒

 2016年カンヌ映画祭のパルムドール受賞作品です。
 時間がなんとなく過ぎていく中、レビューの高評価と「59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない……」といった作品紹介に引かれ、amazon primeで見た映画です。

 自分には、ダニエル・ブレイク、シングルマザーと二人の子供の家族、彼らに対応する福祉サービスの職員、いずれの気持ちもよくわかるような…、かといってどこかの立場にずっぽりと共感もできずに、ウロウロしているうちに映画は終わりを迎えてしまいました。
 それでも、「人が働く」ということに関わっている自分にとって、ダニエル・ブレイクの言葉は心に重く突き刺さりました。

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「修先生、平成元年卒業38HRの○○です。わかりますか?先週、○○、××、△△と同窓会をやりまして先生に会いたいという話になりました。先生は今どちらにいますか?」  3月末、そんなメッセージが突然飛び込んできた。
 もう30年前の卒業生。彼女たちも50歳目前。
 彼女たちが卒業した翌年、家庭の事情で学校を辞め地元に帰ってきてしまったために、ほとんど音信不通になっていた。  その後、当時のクラスのライングループがつくられた。

「子どものお弁当作りが…」
「大きな手術しました」
「三人の男の子が…」
 僕の手元にあるのは、30年前の卒業アルバムと、断片的な当時の記憶。
  何時も眠そうな顔をしていた奴。
 しらーとした顔をしていた奴。
 こちらを心の内をしっかりと見透かしているような奴。
 良い子の仮面(?)をかぶっていた奴。
 色々としでかしてくれた奴…。
 教師と生徒のだましあい…。感情のぶつけあい…。
 それは教室であったり、グランドや体育館や、職員室であったり…。
 それらが一つ一つ蘇ってくる。

 この30年。  色々なことがあったんだろう、と思う。  勿論、僕にしてもそうだ。
 あの頃の事を思うとどうして、こんなに胸がギュッとなるのはなぜだろう?
 そんな思いを先月末以来、感じている。

 30年前に、今の自分の姿など、誰も想像できなかった。
 ただただ、単調に思える毎日の繰り返し。
 何気ない日常。  そんな中で、折々、迫り来る選択や判断。
 多くの人との出会い・別れ。
 突然、ふりかかる人生を一変させるような出来事。
 大小様々な「その時」を繰り返しながらたどり着いた「現在」。
 想像できないことがとてもたくさんあるからこそ「あの頃」は大切だったんだと、今にして思う。
 先のことなど誰もわからない。
 年月を経る毎にそのあたりまえの重さを知っていく。
 そして何気ない毎日の愛おしさを。

 それでも、一生懸命に毎日と向き合ってきたからこそ、お互いに会いたいと思えるのだろう。
 同じ時間を与えられた者同士。よく、頑張ってきたよね! と。
 そんな風に、自分自身を褒めてあげたいのかもしれない。 

 彼女たちに会いたいと思う。
そして、30年という時の流れを色々と聞いてみたいし、聞いてほしいと思う。

 この本を手に取ったのは今から15年ほど前のこと。
 その頃は、ブラインドランナーの伴走者として、一緒に練習したりレースにでたり……。ランナーと伴走者との関係についても色々と考えていた頃、そんなときに、この本と出会った。

 年末、映画が公開された。
 「愛しき実話」というサブタイトルに何とも言えない違和感を覚えながら、この正月に映画館に足を運んだ。
 2時間の間、笑うこともなく、涙を流すこともなく、結局何も心動かされることなく劇場をあとにした。
 方やYahoo!レビューなどでは、かなりの高評価。自分の感覚がおかしいのか、と思ってしまったり。
 そんなこともあり、本棚に眠っていた本を引っ張り出してみると、当時のドッグイヤーが何とも懐かしく思えてきた。

 映画と原作は全く別モノ、というか、結局は2時間程度の中に収め、メッセージ性のあるものにするのは、無理がある、というのが一番。

 本を読んでいる途中、何度も何度も止まってしまった。
 勿論、今の仕事と重なる部分も多いからこそ、余計に時間がかかってしまったとは思うが、15年前もやはり、なかなか進まずに立ち止まった記憶が蘇ってきた。

 なぜ、時間がかかるのか? それは簡単には答えがでない問いかけを突きつけられるから、その都度、立ち止まり、自分の生き様やこれまで、そしてこれからに目を向け、考え…。結局、また、振り出しに戻る…。そんなことを繰り返しているからなのだとおもう。
 そんな簡単に、そんなきれいに、まとめられないでしょ? と。
 本のサブタイトルも「筋ジス・鹿野靖明ととボランティアたち」であり、その日々は壮絶なものだったと思うし、自分にはどうしても「愛しい」という言葉が出てこなかった。
 だから、自分には映画を観ても心が動かなかったのだと思う。

 映画の受け止め方はひとそれぞれ。
 ただ、この映画をきっかけに、原作に手を伸ばす人が増えて、改めて「障害者」「健常者」、「支える」「支えられる」、「当たり前」「フツー」ということを考えるきっかけになればと思う。
 そして、自分もこうした問いに対する答えを探し続けていくんだろうなぁ、と思う。 

「生きるのをあきらめないこと。
そして、人との関わりをあきらめないこと。
人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろう」
(『こんな夜更けにバナナかよ』渡辺一史著 「エピローグ」より)

「鹿野の背負っている『障害』の中身が具体的に見えてくることで、無用な気遣いは不要だし、どういう場面で助ければいいのかという、『フツウの接し方』や『心の準備』もできてくる。
 カラダの扱いがうまい人は、心の扱いにもよく気がまわるのかもしれない。少なくとも、人が助けを必要とするとき、的確にタイミングよくさっと手が伸びるというのは、ただ立ちすくんでしまうことの多い私には、やはり『すごいことだ』と思ってしまう。」p98

「健常者どうしであれば可能だった『拒否』や『対立』も、障害者を前にすると過剰な『やさしさ』や『思いやり』を無理して演じがちな面があるのだろう」p124

「重度障害をもつ自立生活者たちというのは、いわば、『他人と関わること』を宿命づけられた人たちである」 p176

「オマエらはいいよ。たまたま脚光を浴びて、周りに人が集まって応援してくれる人もいっぱいいる。でも、オレみたいに地味な障害者は、一生ここにいるしかないんだ」 p178

「夢みるだけで、たやすく夢が手に入るなら運動はいらない」p200

「ある日、ある瞬間から、人間同士が劇的に理解し合えるようになることは、おそらくあまりない。対立や和解を何度も繰り返しながら、振り返るといつのまにかわかりあっていた、認め合っていた、というのが本当のところではないだろうか」p267

「『障害は個性である』という言い方があるが、その意味ではまさにそうなのだろう。筋ジスは鹿野の個性であり、大きな魅力なのだ。しかし、それは『障害』や『筋ジス』というものに、はじめから無条件に備わっている個性なのではなく、鹿野がこれまでの自立生活を通して、血肉としてきた経験が培った個性」p304

「『よかれ』と思ってやったことが、そうでなかったときの驚き、やさしさが裏目に出、アドバイスが裏目に出、互いの意志と意志、気持ちと気持ちがチグハグに食い違う瞬間。そのとき人は『他者』というものの存在を思い知らざるをえないのだ。自分とは違う存在。自分の思い通りには決して動かない他者の存在。あくまで自分を正当化して相手を批判するか、たしなめるか、見下すか、切り捨てるか、それともあくまで他者を理解しようと歩み寄るのか……」p383

「『障害者を介助すること』が、自販機でジュースを買うのと同じ、喫茶店でコーヒーを飲むのと同じくならないと完成形じゃない。完成形はそこなんですよ。そういうことなんでしょ。シカノさんがやりたいことは」p397

『こんな夜更けにバナナかよ』 渡辺一史著 北海道新聞社



 法人のブログを書き始めた2008年以来、恒例となっていた12月31日のブログ、一年前の今日は、書き綴ることができずにいました。
 それだけ翔太君の死は大きな出来事でした。
 昨年から今年一年、行きつ戻りつ、右往左往しながらも、少しずつ「次」に踏み出すべき足の置き場を探っていたかのような私たちでした。

 やりたかったけれどやれなかったこと。
 やったけれどうまくいかなかったこと。
 たくさんのうまくいかないことの中に、時々おとずれる心の救われるできごと……。

 今から10年前の12月31日のブログを読み返していました。その時に登場する宮沢章二の『流れの中で』を読んで思います。
 あの頃と少しも変わっていないのだということ。
 そして、何とも言えずにホッとする自分がいることを。
 そして、これからも変わり続けることなく、不器用であっても、ゆっくりと丁寧に自分たちの道を進んでいきたいと思います。

 私たちに関わってくださった方々に心からの感謝を込めて。
2018年12月31日

『流れの中で』  宮沢 章二

聞けるときに 聞いておかないと
決して聞けないコトバがある
言えるときに 言っておかないと
再び言えないコトバがある

 つかめるときに つかんでおかないと
 死ぬまで無縁の宝がある
 みがけるときに みがいておかないと
 光らぬまま朽ちていく 宝がある

得たものを失う その数よりも
得られずに失われたものの 数の多さ
わずかの知恵と わずかの努力が
それに触れ得たかもしれないのに……

去年の10月23日、27歳という若さで突然この世を去った水野翔太君。
あれから一年が経ちました。
事務局長としてこの法人を最初から支え続けてきた水野さんに降りかかったこの不幸な出来事は、くらしえん・しごとえんを大きく揺るがせました。
悲しみの中にあって、人と関わることを避け、引きこもっていく水野さん。
この法人から去ることを何度も何度も考えていました。
水野さんが揺れるたびに、くらしえん・しごとえんも大きく揺れてきました。

行きつ戻りつを繰り返しながらの一年でした。
それでも一周忌を過ぎた今、水野さんはくらしえん・しごとえんの事務局長として、また、ジョブコーチとして前に進むことを決めました。

「時間というのが一番の薬だった。けれど、ただ時間が経つことだけではなかった。
自分が働く中で、人と関わって、社会とつながっていたからこそ、『時間』という薬が効いてきた」と水野さんは言います。
そして
「ただ、ひきこもってただ悲しんでいるだけでは、絶対に駄目だったと思う」とも。

この一年。
10年以上にわたって彼の働くことに関わってきた僕にとっても、大きな穴が空いた状態が続きました。
それでも、自分自身に言い聞かせるように、養成研修や、高校生・特別支援学校の生徒、支援者……色々な人の前で水野翔太君の人生を話してきました。

去年。翔太君の葬儀が行われていた時、僕は養成研修のために滋賀に向かう車の中にいました。
そして今年。去年と同様、滋賀で開催していた養成研修の最終日に一周忌が執り行われました。

研修の最終日の「ケースから学ぶジョブコーチ支援」のコマ。
最後の最後のケース紹介で、翔太君の話をとりあげました。
「働くことをあきらめないこと」「働けないと誰が決めるのだろうか?」と。

スライドの最後に書いたメッセージは、水野さんへのメッセージでもあり、自分自身やこの法人へのメッセージでもあり、自分達に関わってくれているすべての人への思いです。


努力をしても報われないことがたくさんあります。
どんなに頑張っても期待通りの結果が出ないことがあります。

それでも、次につながる「何か」は必ず残ります。

この世の中、うまくいかないことや
理不尽なこともたくさんあります。

「明日」が突然奪われてしまうこともあります。

それでも、明日に向かうことが大切です。

命ある限り、自分なりに生きていくことが大切です。

でも、一人で頑張るのは大変です。

だから、困ったときは誰かに助けてもらってください。

そして、誰かが困っていたら助けてあげてください。

「明日に向かう」(PDF937KB)※PowerPoint資料抜粋)


 

もし、次男が育っていれば今日は27歳の誕生日だった。

27年前の今日。同じように気持ちの良い青空の下で、ソフトボール部の顧問をしていた僕は、西部地区予選に出かけていた。試合は予定通り(?)1開戦ですぐに負けてしまい、急いで産院に向かった。

直前のエコーでも元気に動いており、心音もしっかりしていたから、二人目はちゃんと生まれる、と信じて疑わなかったから、朝一番の試合が終わった後に産院に向かうことにしていたのだが、産院に着いても、赤ん坊の泣き声は聞こえず、僕の目に飛び込んできたものは全身麻酔で眠っている妻の姿と、その横で、チアノーゼの状態で蘇生措置を施されている赤ん坊だった。

「もう、結構です」

先生の話を聞いた後、蘇生措置を打ち切ってもらうように伝えた。

赤ん坊はあたりまえに生まれてあたりまえに育つ、と何の疑問も持たずに思っていた僕にとって、長男そして次男共に、大きな泣き声や産院でおっぱいを飲む姿をみることはできなかった。

一人で諸々の手続きをして、一人で火葬場に出かけた。

色々と考えていた子どもの名前だったが、一度もその名前を呼ぶこともなく、墓石に刻むための名前となった。

もし、生きていたら、どんな生活が繰り広げられただろうか?「れば・たら」は勿論ないけれど、それでも、ふとしたときに色々と考えてしまう。

今、こうしている時も、世界のあちらこちらで新しい命の誕生と同時に、様々な理由で命が奪われているのだと。

明日も今日が続いていると自分の幸せを思わないではいられない。そして命ある限り、自分の生を精一杯生きよう、と思ってしまう。

 あまりにも突然であまりにも若すぎる死。

 23日の朝、「翔ちゃんが、翔ちゃんが…」という電話をもらい、すぐに自宅に駆けつけたが、すでに翔ちゃんは冷たくなっており、救命救急士と警察がきていた。
 そして、その傍らで座り込んでいる水野さんの姿が目に入った。

 土曜日にグループホームから帰ってきた。「ちょっと熱があるから明日の朝グループホームに送っていくつもりだから、遅れるかもしれない…」「わかった、大丈夫。こっちで…」と仕事の段取りを日曜日の夕方にしていた。
 ごくごくありきたりのいつもの会話。
 そんなあたりまえに続くはずだった「いつも」が突然終わってしまった。

 死因は心不全。
 てんかんの発作が起きたわけではない。
 苦しんでお母さんを呼んだけれど、台風の風で聞こえなかったわけでもない。ほとんど苦しむこともなく息を引き取ったとのこと。
 しかしそれらは、翔ちゃんの死という事実の前には、なんの気休めにもならない。

 10年以上前から、僕は翔ちゃんとつきあい始めた。
 最初は福祉工場の実習で初めて働くことに関わった。
 そしてその数年後、布団工場での就職。
 さらに数年後、別の会社での就職で…。

 翔ちゃんのことはこれまでもこのブログでも書いてきたし、ジョブコーチの養成研修をはじめ、色々な場所で話をしてきた。
 翔ちゃんが働き続けるには、色々と大変なこともあった。
 本人の頑張りはもちろんのこと、生活面で関わったグループホームの職員さん、会社の方々…。実に多くの人が彼の働くということを支えてきた。
 そうした支えの中、確実にたくましくなっていく姿を僕は目の当たりにしてきた。

 一方、日々起こる様々なトラブルの中、一人で育てている水野さんの母親としてのつらさ、悲しさ、大変さも同じように見てきた。
翔ちゃんに辛く当たってしまった時や、怒ってしまった時のこと。そして、そうした時の自己嫌悪…。そんな姿もたくさん見てきた。

 ついつい口をついて出てくる愚痴も、生きていればこそのこと。
 翔ちゃんはいなくなってしまった。

 明日からの滋賀での養成研修に向かっている午後2時。
 翔ちゃんの告別式が行われた。

 翔ちゃん…
 君がどれだけ頑張って生きてきたかは僕は知っている。
 たくさんの写真や動画の一つ一つに君の人生が詰まっている。
 ホントに頑張ってきた。
 たくさんの人との大変なことやつらいことやうれしいこと…。
 そして何よりもたくさんの笑顔の中での素敵な時間。
 僕は君からどれだけ多くのことを教えてもらったことか!

 僕は翔ちゃんの懸命に生きてきた人生をたくさんの人たちに伝えていきたいと思う。

 安らかにお眠りください。

心も実務面も全く準備ができていないのに新年度が始まってしまいました。
いやぁどうしよう?等と考え見ても仕方がないこと。なるようにしかなりません。
そして、無理をしないこととできることを丁寧にしっかりと誠実に行うことだと。

さて、この4月からは、くらしえん・しごとえんも7人の職場になりました。
6名のジョブコーチと1名の事務補助職員です。浜松務所に5名、静岡事務所に2名です。
4月には、特別支援学校の卒業生の支援を中心に11ケースの支援がスタートします。
今週、来週の2週間は現場支援が毎日のように現場に出て行きます。

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今年が終わろうとしています。
毎年、書き綴っているこの12月31日のブログですが、「今年」は色々な意味で大きな節目の年でした。
法人をつくって10年という年月の重さと次が見えてこない戸惑い。
かといって焦りがあるというわけではなく、今までと同じように、ただ淡々と、そして誠実に日々を積み重ねていくことだけだと思っています。

今年一年、障がいと向き合いながら頑張って働く人たちや、一生懸命障害者雇用に取り組んでいる事業所の方々とのたくさんの出会いがありました。
そうした人たちとの出会いが私たちを強く大きく、やさしくしてくれました。
たくさんの失敗やつまずきをしながらも、「頑張ってきたよな」と思える一年であったことを何よりもうれしく思います。

来年の今日。
同じような気持ちでいられるように…。
今よりもほんの少しでも自分のことが好きになっていられるように…。
ほんの一歩でも前に進んでいられるように…。
そして、一人でも多くの人の笑顔が見られることを願います。

今年一年、私たちに関わってくれた全ての人への感謝を込めて…。

2016年12月31日
【これまでの12月31日】

2015年の終わりに 2015年12月31日

物語の続き 2014年12月31日

2013年の終わりに 2013年12月31日

2012年の終わりに 2012年12月31日

大晦日に思う… 2011年12月31日

2010年の終わりに 2010年12月31日

ゆく年 2009年12月31日

『流れの中で』 2008年12月31日

全国手をつなぐ育成会連合会の「手をつなぐ」2016年8月号に掲載されました。
「ジョブコーチの役割について紹介する」ということが原稿の依頼内容でしたが、限られた紙面の中で育成会の家族の方が主な対象ということで、結局、10年以上のつきあいのAさんの話を中心に書かせてもらいました。 Read More →

6日間に及ぶジョブコーチ養成研修の最終日、閉講式などで必ず受講生の皆さんに伝えてきた。
「障がいのある人の就労支援・雇用支援に関わっている以上、どこかでお会いすることがあるかと思います。その日を楽しみにしています」と。

「おさむさんですよね」「私○○です。お久しぶりです」といきなり声をかけられ、ただただ驚いた。
Mさんとは2009年3月の職場適応援助者養成研修以来、実に7年ぶりの再会だった。 Read More →

いよいよ新しい年が始まりました。
今年のテーマは「次」です。
10年前「ジョブコーチが自立・独立した存在であり続けること」を理念に法人がスタートしました。
以来、試行錯誤、紆余曲折の連続でした。
それでも、どんなときでも「ジョブコーチであり続けること」に拘ってきました。
そして、今があります。 Read More →