「役立たず」

「どうせ、わたしは役立たずだ!」「皆、死んだ方が良いと思っている!」

 小学校5、6年生の頃、息子はよくそう言って大声で叫んだ。

 今はさすがにそれほどでもないが、息子は自分に対する自信が本当に持てずに生きてきている。それはそうだろう、親である僕自身が、息子が「人の役に立つ存在」とは思えないできたのだから。

 小学校時代、学校に行けなくなった息子の話をクラスの友達の前でしたとき、

「息子は決してみんなの役に立てるような存在ではなく、むしろみんなに色々なことをしてもらわなければいけない存在かもしれません。それでも、クラスの一人と考えてもらえたら嬉しい」と話しをした。

 今日、北京パラリンピックに出場した新野さんの報告会を兼ねた飲み会が行われ、ブラインドランナーと伴走者達が集まった。……と言っても、僕が久しぶりにそうした場所に顔を出した、という方が正確だが。

 新野さん夫妻に、僕は救われたと思っている。

 一人で二人のガイドをするのはさすがに大変だった。そこで、新野さん夫妻の眼科に付き添った時、息子を連れて行った。肩を貸すことくらいできるだろう、と。

 実際、診察はバラバラになり、旦那さんを僕が、奥さんを息子が案内をするようになった。

 奥さんは息子に、「こうして欲しい」ということをきちんと伝えてくれた。息子もその指示に従って、危なっかしく見えはしたが、一生懸命息子なりにサポートをした。

「ありがとう! 本当に助かったよ」

 と新野さん夫妻は心からそう言ってくれた。

「私たちの目の代わりになってね」と。

 以来、眼科だけではなく、マラソンのトラック練習や大会などにも息子はついて行くようになった。そして、そのうち、奥さんのウォーキングのロープを持つようになり、そして、ゆっくりとトラックを一緒に走るようになった。

 最初はトラック1周。そのうち、5周、10周と距離が増えていった。次第にガイドのコツも覚えていった。

「レースに出たら?」という奥さんの誘いに、息子は5kmのレースに出るまでになった。

 小学校時代、体育大会やマラソン大会など辛くて辛くてたまらなかった息子が、走るようになったなんて本当に信じられなかった。

 5年生の体育大会の全員リレーの時、クラスの友達に「タラタラ走ってたら、殺すぞ!」と言われ泣き叫んでいた息子だった。

「伴走者がいなければ一歩も走れません。これからもよろしくお願いします。4年後のロンドンをめざします」

 新野さんはそう言った。そして、「夢は叶えようと思わなければ、叶わない」とも。

 奥さんがやってきて、言ってくれた。

「ゆーた君、元気? 私たちはゆーた君に会えて、本当に良かったと思っている」と。

 それは、こちらの言葉。

 新野さん達と出会わなければ、僕はずっと言い続けていたかもしれない。

「息子は決して人の役に立てるような存在ではないけれど……」と。

(お)

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