関係各位

特定非営利活動法人くらしえん・しごとえん
代表理事 鈴木修

 去る9月1日に突発性の血栓症血小板減少性紫斑病のためご逝去されました髙草志郎様のご葬儀のご連絡です。
 ご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。

日時:前夜式 九月七日 午後六時から
   告別式 九月八日 午後十二時半から
場所:京急メモリアル金沢文庫斎場
   (京浜急行線金沢文庫駅より徒歩一分)
   神奈川県横浜市金沢区谷津町三八四
   電話:045-784-9833
   ファックス:045-784-6919
喪主:髙草惠利 髙草雄士
 
 ※コロナ感染予防対策のため マスクの着用をお願い致します
 ※ 駐車場には限りがございますので 近隣の駐車場もあわせてご利用ください

 お昼前、東京から連絡が入った。
「髙草さんが昨日の夕方、亡くなりました」とのことだった。
 一瞬何のことかわからず、思考が止まり、言葉もなくしてしまった。
「詳しいことがわかりましたら、また連絡します」と電話が切れた。

 夕方、ご子息から連絡があった。
「父の手帳をみていたら、鈴木さんのところの予定が入っていたので…」と。
 10月の養成研修の講師の事だ。
 髙草さんが「仕事を手伝ってもらっている」と浜松に連れてきた際、三人でウナギを食べに行ったことが脳裏をよぎった。
 親子で同じ仕事に向かっている姿を羨ましく眺めていた。

 昨日の午前、少し体調が悪い、と言う状況だったのが、病院に行き容態が急変し、そのまま亡くなられたとのこと。
 ついこの間も、養成研修の事で話をしたばかりだった。
 農福連携の事で力を貸してほしいから、今度詳しく話をしたい、とも行っていたのに……。

 髙草さんとのつきあいは、2011年、髙草さんがひなりの社長に就任してから始まった。
 特に社長在任中の5年間は、実に多くのことを話したし、一緒に現場を共有した。何よりも「企業」の厳しさや考え方をたくさん教えてもらった。
 ひなりをやめ、一般社団法人ノーマポートを立ち上げた後も、法人の理事として、また、養成研修の講師として、年に何度もお会いし、電話で連絡をとっていた。

 遺されたご家族の悲しみはいかばかりかと思うが、それ以上に髙草さんはさぞかし無念であったと思う。

 もっと色々なことをやりたかっただろう……
 まだまだ色々なことを教えてほしかったし、一緒に新しいものを作り上げたかった。

 痛恨の極み……。

 ただただご冥福を祈るばかり……。

2015年6月17日 ワークサポート課の研修の一コマ
2019年10月27日 職場適応援助者養成研修(岐阜)にて

 色々な場面で「怒り」を覚えることがある。
 ジョブコーチ支援の現場では、どちらかというとその怒りを飲み込む事が多い。
 そして、その「怒り」の持って行き場や処理の仕方に悩み苦しむ。

 逆に、一方的に「怒り」をぶつけられることもある。
 いきなり「がツン」と頭を殴り付けられる。全く予期もしていない、不意打ちである。
 その場では、相手の怒りの本質も分からずに、とりあえずは怒りを拡大しないように「すみません」と頭を下げる。
 しかし、時間が経つにつれ、なぜ、怒りをぶつけられないといけないのか、どうしても納得できない時がある。もっと言えば、すみませんと謝った自分自身に腹が立ってくる事もある。

「『怒り』というのは、理性で考えないといけない」
 まだ若かりし頃、尊敬する先輩が教えてくれた。
「怒り続けるには『理性』の力が必要」だとも。
 どこまでがその人の言葉だったのか、今でははっきりしないし自分なりの付け加えたものもあるだろうが……。

 すぐに消えてしまうような「怒り」はそれは自分の単なる感情の爆発でしかない。何度も何度も自分の怒りの正当性を考えていくうちに、自己嫌悪に陥ることもたくさんある。
 後になればなるほど、その怒りが増幅していく場合もある。その時は、何に対して自分が怒っていたのかが、だんだんとずれてくることがある。
 そして思うのだ。「これは怒らなければならないのだ」と。
 一呼吸おくどころか、1日2日その「怒り」を心の中で転がし続ける。
 全くもって不愉快な時間だ。
 それでも怒らなければならないことである、と思った時には、しっかりと「怒り続け」ないといけない。
 しかし、往々にして、怒り続けることに疲れてしまい、いつの間にか自分の中でウヤムヤにし、「そんなことで怒ってもなぁ」と怒りの収めどころを探していることの方が多い。

 感情を表すことはよくないことではない。
 怒りはとても大切なんだ。
 
 だからこそ、その怒りと付き合う術を自分の心の中に培っていかなければいけないと思う。
 何でもかんでもウヤムヤにする、曖昧にする、表面的な「笑顔」」でごまかすことが多い今の社会。
 逆に、所構わず怒りをぶつけることが多い今の社会の中にあってこそ、だ。

 と、こんなことを書いているのも、理不尽な怒りをぶつけられた、という話を聞いて、腹が立って仕方がないからなのだ。
 落ち着け、落ち着け!
 そう自分に言い聞かせるかのように今、iPadの画面に向かっている。

 深呼吸が必要だ。

 正体のわからない感情と向き合うことの難しさ。
 それはとってもしんどいことだし、怒りや悲しみ喜び……、そうした感情は簡単にわかるものではない。

 それでも、そうした複雑な気持ちを丁寧にすくい上げられる両手を持ちたい。

「最近は職場で何か困った時があってもジョブコーチなんか思い浮かべもしなかったでしょ?」
 その僕の問いかけに彼はちょっと答えにくそうな顔をしながらも「はい…」と言った。
「それでいいんだよ。僕たちはボツボツ消えていく時なんだから」と僕は続けた。そして「仕事の事は職場の○○さんや××さんがいるし、保健室の△△さんもいる」「困った時には、そうした人たちを頼っていけばいいんだから」と。

 彼はこの春、特別支援学校を卒業してA社に就職した。
 手帳は精神保健福祉手帳。
 家庭や学校はとても心配をしていた。
 事業所はこれまで障害者雇用に取り組み、社内には複数名の企業内ジョブコーチも配置しているが、最初は家庭や学校との連携や生活面のサポートなどから、訪問型ジョブコーチとしてまずは僕たちが支援に関わることになった。

 1週間に2回の現場支援が1週間に1度。更には2週間に1度。そして1ヶ月に1度…という具合に少しずつ少しずつ支援頻度も時間も減っていった。
 メンタル面での負荷がどの程度なのか?
「大丈夫です」という本人の言葉は本当に大丈夫なのか?
 等々、職場としても手探りの状態が続いていった。
 それでも、少しずつ、職場の丁寧な関わりや気遣いの中で、彼の「大丈夫」という言葉に対する信用が生まれていき、そのうち、伝えるべきことははっきりと伝えていくようになっていった。

 こうなると我々の出番はなくなってくる。
 家庭での様子や気がついたことなど、些細なことでも拾い上げ、この先のトラブルとなり得るようなことがあれば、テーブルの上に出しておく。
 あれほど就職前に心配していた家族も、すっかり安心している様子だった。

 勿論、この先、何もないわけはない。
 しかし、この時期で一番大切なことは、何かあった時に会社内でしっかり相談でき、一緒に考え、解決の方法を一緒に考えてくれる場所をつくっておくことである。
 そして、何かあった時には、そうした場所を活用できるようにすることだ。

「今日の会議の目的は、僕たち外部のジョブコーチは○○さんには必要がなくなったので、これまでやってきたことをしっかり整理し、将来的な課題となるであろうことを○○さんと会社の方に伝えることです」

 本人、総務の方々、そして現場の方々。
 3月、4月の様々な心配事が笑い話になった日だった。
「良い会社に入れた?」
「はい」
 そういう彼の言葉がとても嬉しかった。

 2007年からスタートしたくらしえん・しごとえんの職場適応援助者養成研修も2020年3月末の時点で、研修開催は34回、修了生は1,500名以上となった。
 たった6日間の研修、それだけでジョブコーチがなんなのかをとても伝えきれるものではなく、この研修は「職場適応援助者助成金」を受給するための「要件」の一つに過ぎない。つまり、この研修は「職場適応援助者」として活動することを前提とした研修なのである。ジョブコーチとしての活動をするためのスタートラインに立つための研修ということをどれだけの人が理解しているのだろうか?

 しかし、ここ何年かは「就労支援の基礎研修」的色彩が強くなってきている。
また、「職場定着支援事業」の加算研修ということもあり、これまで就労支援の経験が全くなかった福祉事業所の受講希望も多くなってきている。
 実際、助成金額面からもジョブコーチ支援事業だけで、到底成り立たない。
 また、福祉サービスの「充実」もあり、訪問型職場適応援助者はその数も減少している。
「訪問型職場適応援助者は絶滅危惧種!」などと自嘲気味に言うこともある。企業在籍型職場適応援助者がいれば良いのではないか? 等という声もあるようだが、決してそんなことはない、と思う。
 しかし、実際数は減っているのだから、少数派の意見として多数の中に埋没していきそうな危機感を抱いている。

 訪問型職場適応援助者(ジョブコーチ)の存在意味をはっきりさせていくことがこのような混沌とした時代の中で、とても重要だと思うし、思っていることをどんどん伝えていくことが必要だと思っている。

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 日曜日に事務所にやってきた彼はいたって普通の青年だった。
 礼儀正しく、話し方もしっかりしていた。高校を卒業し一般企業に正社員として採用され、6年になるという。
 先週事務所に電話が入り、「発達障害と分かって会社に伝えたら、契約社員でないと雇用はできない」そう言われたというのだった。
 とにかく事務所でゆっくり話を聞きます、となったのだった。

・部署が変わってから仕事で注意されることが増えた。
・自分自身も発達障害かもしれないと思い発達障害者支援センターに行った。
・検査をした結果、発達障害の疑いがあるということで医療機関の受診を勧められた。
・受診の結果『発達障害』と診断を受けた。
・その前後、精神的にも落ち込み、うつ状態になり1ヶ月の休職をすることになった。
・会社には、休みのことと発達障害の診断を受けたことを伝えた。
・先日、会社から「復職できるかどうか医者の診断がほしい。また、会社に戻るとしたら、正社員ではなく契約社員となることを了解してください」と言われた。

 ということだった。
 会社は産業医と社労士と相談をした上での話だということだ。
 …………
 え? え? え? え????
 途中何度か確認をした。
 これまでに仕事のことで注意を受けたことの有無や、契約内容の変更についての話し合いの有無等々。
 本人にしてみれば、何度か仕事のミスで注意を受けたことはあるけれど、ということだった。勿論本人の話しか聞いていないから判断ができる状況ではなかった。

「どうしたいの?」と聞いた。
彼は、身分の変更の事と発達障害の診断の事がリンクしているのだろうか、「会社を続けたいという気持ちは薄くなってしまった」と言った。

 差別禁止と合理的配慮の提供義務
 この資料を印刷して、あくまでも「一般論」として彼に説明をした。
 会社の負うべき義務。
 社員と会社の話し合いの大切さ。etc etc

 彼に伝えたことは
「色々と考えてしまうだろうけれど、まだまだあなたの人生はこれから。一生懸命に考えて、向き合うことが大事だよ」
「あなたの考えや感じたことは、間違っているとは思えない。勿論会社の言い分もあるだろうけれど、もし、会社に対してどう言えばいいかわからなければ、また、相談に乗るから」
「まずは、家に帰って自分で考えてみて」と。

 その日の夜、母親から電話が入った。
「ありがとうございます。とてもスッキリしたようです。自分の感じたことは決して間違ってはいないんだ、と思えたんだと思います」と。
 このお母さんこそ、10数年前にジョブコーチ支援で関わった方の母親の友人とのこと。
 今回のことを相談した時に、その母親から「だったら、くらしえんに相談してみたら」と紹介されたのだそうだ。

 会社と今週、復職にあたって話し合いをするとのことだ。
 その後、どうなったのだろう?

 頑張れ、頑張れ!
 サポートが必要だったら、いつでも連絡しておいで!

 障害者雇用の現場にあっては、実に様々な要因が絡み合い、決して計画通りにはいかないことが多い。また、十分なアセスメントがなされ、マッチングがはかられ、受入体制がしっかりしている所からはまず声はかからない。
 そうしたしっかりとした流れをつくることこそ、就労支援の基本であり、そうした流れがしっかりとできてきている事を随分と感じるようになってきた。
 しかし、我々に依頼が来るのは、「適応上の課題」があるからこそ、である。
 課題があるからこそ、声がかかるのだ。

 3月。
 事業所から、精神保健福祉手帳を持っている人のジョブコーチ支援を依頼され支援がスタートした。トライアル雇用と同時。支援期間は6ヶ月。
 支援が始まってすぐにコロナウィルス感染拡大の影響が出てきた。
 業務が固定化されず、その日にならないとスケジュールが立たないという状況。しかも本人は就労経験もほとんどなく、業務内容も初めてであり、明らかに苦手な作業である。
 どうして雇用したの? と言っても仕方がない。
 様々な理由があっての雇用である。
 少なくとも関わる以上はどうすることが本人のため、事業所のためになるのか、を必死になって考える。

 固定化されない日替わりメニューのような毎日が続く中、試行錯誤をくり返したが、八方塞がりの状況。打開策が見いだせないまま3ヶ月が経過しようとしていた。
 思い切って、職場を本社から変えることを提案し、事業所との調整に入った。
 しかし、新しい職場は雇用経験も少なく、現場の職員の方の不安感はとても大きいものだった。
 それでも、本人の能力の見定め、伸びしろをはかるためには、「環境側の固定」が重要となる。
 そして作業指導については、ジョブコーチが全面に出ることとした。

 いよいよ新しい職場での仕事のスタート。
 その日から、毎日、支援終了後zoomを使ってミーティングを行った。
 支援状況の報告のみならず、写真や動画を見ながらチェックしたり、その場でスケジュール表などを作成したり、と。
 現場に出ているジョブコーチには、翌日の現場でのポイントや声かけの内容や事業所に依頼することなどを整理する。
 別のジョブコーチは家庭訪問や連絡を通して、状況の確認をしたり、支えてほしい点、声かけのポイントなどを相談する。支援機関の支援員には現状の報告と今後の方向性の意見交換をする。
 本社に対しては、基本的な方向性の確認を要所要所でおこなっていく。

 ジョブコーチとしての「意地」もある。
「何としてでもしっかりとした方向性を見いだす!」
 そんな強い思いが毎日を支えている。
 大まかな方向性を堅持しつつ、日々の微調整を繰り返す中、
 作業手順をしっかりと覚えることができた。
 ジョブコーチの介入もほぼなくなってきた。
 作業時間も確実に短縮できてきた…。という所まできた。
 後は、一人でどこまで仕事ができるのか?
 ジョブコーチのフェイドアウトとその時に表出する課題と対処方法がポイントとなってくる。

 今日の支援後のミーティングでは、「どうしてAさんは変化したんだろう?」ということを話題にした。
 様々な要因があげられたが、「ジョブコーチ支援の原点」に立ち返った支援であったと思う。


 事実を正確に捉える。
 見えていないところを見つける。
 日々、PDCAを回していく。そのために回らない要素を探す。回すために必要な対策を練る。
 本人へのアプローチ、環境へのアプローチ。
 視覚化された資料、本人にとってわかりやすい指導方法。
 適切な負荷。
 タイミングをのがさないアドバイス、振り返り。
 上辺だけではない心からの評価。
 成果の可視化。
 そして、何よりも一緒に頑張っていこうというジョブコーチの本人、仕事への思いが伝わるのか……。
 行き着くところは養成研修や色々な本にも書かれている当たり前のことなのだが。

 もう一つ。
 今回、とかく一人で悩みを抱えることが多いジョブコーチだが、現場をどのように共有していくのか、「チームとしてのジョブコーチ支援」ということを色々と考えるようになった。
 その共有方法を可能にしたのは、zoomやNASなど活用によるところが大きい。zoom自体は一年以上前からコチョコチョ触っていたが、この間の社会情勢の中で、自分だけではなく組織としての活用が加速した。

 支援はまだ終わっていない。
 研修でよく「ジョブコーチは支援に入った時から消え方を考える」と口にするが、その「消え方」を考えられるようになってきたのは、大きな山が越えられたからだと思う。
 この間、事業所の方々にも大きな負担をお願いしてきた。
 ジョブコーチから事業所へと「主体」の移行も見えてきた。

 勿論、この先も何が起きるかはわからない。
 しかし、当初の目標である、変化の少ない場所で本人の能力やのびしろを見ることや、得意不得意を事業所、そして何よりも本人が見つめられるようになったことが大切である。

 トライアル雇用終了まであと2ヶ月。
 その時に本人はこの職場をしっかりと選ぶだろうか?
 仕事との向き不向きもあり、「選ぶ」時には色々と悩むのだと思う。
 しかし、その悩むこと自体がとても大切なことだと感じてもらえればと思う。

 先が見えずに誰もが不安を抱きながらの日々が続いています。
 ふと思い出した詩があります。「春について」という詩です。

「冬はむしろ ほんものを許すいい季節だ。」と。

 この大変な時代も、必ず「あの頃はね…」と語る日が来ます。
 その時、どんな自分であったのか、この時代の中で私たちがどう懸命に生きたかを語れるようになりたいと思います。

 この詩と出会ったのは大学時代。
 もうずっとずっと昔のことです。
 普段は思い出すこともありませんが、何かの拍子に突然、どこからともなく、その一節が浮かんできます。

 もう一度、この詩と出会った頃の自分を思い出しながら…。

『春について』     土井 大助

だれもがうたがうものはない。
今冬だということ。
冬のあとには春がくること。

 だが 君はしっているか。
 春はどんな顔をしているか。
 どんな歌をうたうのか。

すぎされば 青春はいっとき
人生だって……たぶん……
たしかに だまってたって春はくる。

  けれども そんな
  のっぺらな春の中で
  きみは泣けるか 笑えるか。

しゃんとした春を彫刻するなら
この冬の壁にノミを打たねば。
はればれと春の歌がききたいなら
まず この凍った土を掘りおこさねば。

  喜びの友情はにぎにぎしく
  つらいときの友情はみにしみる。
  冬はむしろ ほんものを許すいい季節だ。

ぼくらの この時代を
のちの世の人々は語るだろう。
だがまず ぼくら自身たっぷりと語ろう。

  どんな冬があり 春があったか。
  つらい冬のなかで春が
  どんなにけなげに燃えたか。

 そして 冬からはるにかけて
 青春も人生も けっして
 いっときなどではなかったということを。

(詩集「十年たったら」より)

関係各位

特定非営利活動法人くらしえん・しごとえん
事務局長 水野 美知代

お知らせ

 当法人 代表理事鈴木修の母上、鈴木鈴子様が3月10日21時15分、心不全にて享年92歳にて逝去されました。
 ご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。

1.通夜 3月13日(金)18時~
 富士葬祭浜松中央2階(浜松市中区中沢町85-5)
2.葬儀・告別式 3月14日(土)10時~
 近親者のみで執り行わせていただきます。
3.喪主  鈴木 修(長男)
4.宗旨  神式

「もういい、もういい」と眠りから覚めると、母はほとんど聞き取れない声で何度も言った。「もう、たくさん生きた。しんどいのはもういい」というのだった。先月中旬から心臓の苦しみを訴えて救命救急に搬送され、何度か持ち直すかに見えたが、母の心臓は、着実に動きを止めるその時に向かっていた。
 昨晩9時15分。母がこの世を去った。昭和2年生まれ、91歳だった。

 母は長年心臓弁膜症を患っていた。手術もせずに薬でなんとかしのいできたが、2003年、皇居ボランティアに出かけた際に倒れ、急遽東京の病院に入院することとなり、その時に人工弁の手術を行った。
「人工弁は15年ほどで変えないといけません」と言われたが、その当時は、15年後の事など考えもしなかった。
 それから、15年経っても、母の心臓は頑張って動き続けていた。
 頑張って頑張って動いてきたのだろうが、90年以上に渡って母の命を刻み続けてきた心臓は、とうとう寿命となったのだった。
「天寿を全うする」とはまさしくこういうことだろう。

 自分の近しい人の命が突然奪われるのではなく、母の場合は、その時に向かっていく時間は、自分や家族に「死」と向き合う気持ちの準備をする時間でもあった。
 特に母が大好きだった姉や、母がいなければ何もできない父などは、自分以上に時間が必要だったのだと思う。

 3月22日は、母の誕生日だった。
 誕生日を祝うことも、もう一度桜を見ることも、ウナギを食べに行くこともかなわない。
 90年以上にわたる母の人生は幕を閉じた。
 母につながる自分の人生。そして、自分につながる人生。
 あくことなく繰り返され、つながり続ける人生。
 改めて命の重さ、一人の人生の重さを思わないではいられない。

 折しも今日は3月11日。
 多くの人の命が一瞬にして奪われた東日本大震災から9年。
 今、ここに生きているすべての人の命を愛おしく思う。

 新型コロナウィルスによる非常事態。いろいろなところに大きな影響を与えていますが、私たち一人一人の行動が改めて問われているのだと思います。そのような中、学校も突然の休校となり教育現場は混乱を極めています。
 この対策の是非については、時間の流れの中で検証されることだと思いますが、今回の学校の休校に関して思い出したことが一つあります。
 それは今からおよそ30年前の1989年に国連で採択され1990年に発効した「子どもの権利条約」です。

 その一般原則の一つに「子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)」があります。「意見表明権」といわれるものです。
 今回の決定は「緊急事態」ということでの対処であり、結果的には同じ事になったかと思いますが、それでも「いきなり」ではあまりにも子どもや生徒たちのことがおきざりにされているのではないかと感じます。
「子どもたちは大人の決めたことに黙って従えば良いのだ」という発想につながっていきます。

 卒業式や終業式は他でもない、生徒たち自身のものであり、とても大きな出来事です。
 大変な状況であるからこそ、置き去りにされるのではなく、自分たちの問題として考えたり、自分たちの思いを語る機会は必要なのだと。

 2006年に採択され、2008年に発効した「障害者の権利に関する条約」。
 その時の運動のスローガンである「私たち抜きに、私たちのことを決めな いで(Nothing about us, without us)」という言葉と重なります。

 同時に、今の自分自身にドキッとしました。
「お前は傲慢になっていないか?」と……。
 そんなことを考えてしまいました。

みんな一緒

 2013年10月18日、神戸において第1回目となるジョブコーチカンファレンスが開催されました。そのときの小川さんが挨拶で次のようなことを述べられました。
「…このセミナーの重要なポイントとしては、4つの民間の職場適応援助者養成研修機関が横につながってセミナーを開催する、ここにあるのではないかと思っています」
「四つの機関はそれぞれ異なるDNA、組織的背景であるとか、これまでの歴史というものを抱えていますので、同じ職場適応援助者養成という仕事に携わっても、実はお互いにコミュニケーションをとったり、連携をするという機会は限られていたのが現実です」
「就労支援という世界は非常に狭い世界ですし、その中でジョブコーチというのは更に限られた世界ですから、それぞれが独立してバラバラにやっているのは、もったいない、お互いに非常に大切にしているノウハウやスピリッツであるとか、今までは独立してやっていたけれど、本来同じ目標に向かうことにきちんと視点をもてば、共有の財産にできるものがたくさんある、ということにお互いに気がついたのです」と。(小川さんの挨拶はYouTubeでごらんになれます

  2012年に「職場適応援助者養成研修機関連絡会」の準備を始め、神戸を皮切りに名古屋、郡山、金沢、熊本、広島、沖縄で開催をしてきました。そして、今年の7月のジョブコーチカンファレンス2020(大宮)が最終回となりますが、このジョブコーチカンファレンスを発展させていこう、というのが、昨年からスタートしたCEF(Conference of Employment Fast)~質の高い障害者雇用を考える会議~です。

「障害福祉サービスの下ではなく、可能な限り通常の職場において、障害のある人の質の高い雇用を実現することは、障害のある人だけでなく、共生社会の実現に向けて社会全体の利益にもつながります。障害者雇用は、企業の立場でのコンプライアンスの実現という視点だけでなく、社会全体の在り方の問題という側面を持っているのです。」
 開催趣旨の文言です。
 くらしえん・しごとえんは、これまでジョブコーチとして「雇用現場」に関わってきました。「雇用就労」という点に焦点をあてて、普段ジョブコーチとして感じていることを、真正面から伝えていける場だと思っています。
 まして、様々な制度が生まれ、それに伴いいろいろな立場の「支援員」が雇用現場になだれ込んできています。そうした中、「ジョブコーチ」の存在意義は何なのか? そもそも必要性はあるのか? などという声も聞こえてきます。
 そのような時代だからこそ、ジョブコーチの存在意義を改めて考え、しっかりと伝えていくことをしなければいけないと思います。

 その他の分科会の企画でも、今の課題について真正面から向き合ったものばかりです。
 今月21日が申し込みの締め切り。
 チップスやポスター発表もまだ間に合います。
 是非、一人でも多くの人に参加していただき、一緒になって「これから」を考えていきたいと思います。

 2020年1月31日付けでくらしえん・しごとえんの副代表理事として関わってきた小林が退職した。そして2月1日からは彼の地元にある障害者就業・生活支援センター「ぼらんち」の職員として新たに仕事を始めた。

 2014年にそれまでの福祉施設からくらしえん・しごとえんに飛び込んできたが、小林との出会いは2007年に行った静岡県から委託を受けた就労支援者への研修だった。その後すぐに、職場適応援助者養成研修を受講した。
 以来、くらしえん・しごとえんの会員として養成研修の手伝いを始め、ずっと関わりを持ってきた。

 7年前に職員の募集をしたとき、その求人を見て彼から連絡が入った。
 中部地域に暮らしている小林から連絡が入るなどとは予想だにしていなかったが、これまでずっとくらしえん・しごとえんに関わってきた彼からの申し出はとても嬉しかった。
 一方、現実的な問題としては、ジョブコーチ支援の助成金だけでは、支援依頼が入り、フル稼働しても上限が決まっている。移行支援事業所なり、何らかの事業と連動なくして財政的に成り立たないことも明らかだった。

 静岡を中心とした中部エリアでのジョブコーチ支援も、特別支援学校をはじめ、少しずつではあるが着実に増えていき、地域との結びつきは強くなっていった。
 2015年の3月には静岡事務所も開設した。( http://kurasigoto.net/?p=535 )
 しかし事業の展開はうまくいかず、結局事務所も閉鎖することになった。
 そのような中、赤字を出し続けるわけにもいかず、また、小林自身の子どもの教育費など将来的な事もあり、今回、くらしえん・しごとえんから離れる、という結論になった。
 次はどうするのか? これまで培ってきたジョブコーチとしての経験を活かせる仕事は? となったとき、縁あって地元のナカポツの職員としての仕事が見つかったのだった。

 静岡県は就業・生活支援センターの主任職場定着支援担当者が未配置の県。
 静岡県のナカポツには、要件を満たす職員がいないからだと思うが、小林は十分その要件を満たしている。
 就業・生活支援センターの課題も山積しているが、是非とも今までの雇用現場での経験を生かしていってもらえたら、と思う。
 そして、ジョブコーチとナカポツとがどのように連携していったら、地域の障害者の雇用が広がっていくのか、を推し進めて行ってほしいと願う。

 職場適応援助者の助成金だけで、法人が成り立つものではない。
 しかし、職場適応援助者を軸にこの先もくらしえん・しごとえんは独立性、自立性を担保できるようにしていきたい。

 くらしえん・しごとえんも新しい段階に入ったのだと思う。

みんな一緒

 2016年カンヌ映画祭のパルムドール受賞作品です。
 時間がなんとなく過ぎていく中、レビューの高評価と「59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない……」といった作品紹介に引かれ、amazon primeで見た映画です。

 自分には、ダニエル・ブレイク、シングルマザーと二人の子供の家族、彼らに対応する福祉サービスの職員、いずれの気持ちもよくわかるような…、かといってどこかの立場にずっぽりと共感もできずに、ウロウロしているうちに映画は終わりを迎えてしまいました。
 それでも、「人が働く」ということに関わっている自分にとって、ダニエル・ブレイクの言葉は心に重く突き刺さりました。

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 2019年も終わろうとしています。
 今年一年、何度も「ジョブコーチ」のあり方・存在意義を考え直す場面に直面しました。
 それはとりもなおさず、私たちの法人としてのあり方への自らの問い返しの一年でもありました。
 2006年4月の法人時の4つの柱の一つに「ジョブコーチ支援は本人・事業主・家族の支援が大きな柱です。そのためには、ニュートラルな存在であり続けることが重要であり、施設、事業所、行政機関等から独立した存在であり続けることが必要と考えます。」と「ジョブコーチの自立・独立」をうたってきました。
 以来、中立性を保つために「利用者をもたない」こと、そしてジョブコーチとしての「精神的な自立」と「経済的な自立」を目指して今までやってきました。

 ジョブコーチ、ジョブコーディネーター、○○ジョブコーチ、職場適応援助者、職場適応支援者……、実に似たような名称が生まれ、何が何だか? 状態になってしまっている今日この頃です。
 何がどう違うのか、私にも簡単には説明ができませんし、説明し出すと聞いている方が嫌になってしまうのではないかと思います。
 私たち、訪問型職場適応援助者(ジョブコーチ)を仕事としている者にしてみると、次第にその存在意義が失われていくような、そんな危機感すら感じます。

 ジョブコーチとして雇用現場に求められるスキルは、とても高いものがあります。
 私自身、かつて私立高校の教師として20年近く様々な経験を積んできましたが、ジョブコーチとして現場にたち始めたとき、求められるスキルは「教師の時の比ではない」というのが直感的に感じたことでした。
 その感覚は鮮明に覚えていますし、未だにその感覚は間違っていなかったと強く思います。
 逆に、教員時代の給与とジョブコーチの時給単価の落差にもまた愕然としました。とても生活が成り立つものではなく、わずかながらの「謝金」がすべてでした。今でも基本的には変わっていないと思います。

「ジョブコーチの仕事をする」ということと「ジョブコーチを仕事とする」
 この二つは、助詞二文字の違いですが、とても大きな違いがあります。
 以来、ジョブコーチとしての経済的な自立が重要であるという思いは根底に流れています。そして、ジョブコーチが一つの職域にまでなっていくことが重要なことだと。
 勿論、そのためにはとても多くの課題と、それらを乗り越えていく意志がなければなりませんが……。

 雇用現場に直接関わり、本人、環境への調整を行っていくというこのジョブコーチという仕事は、もっとしっかりとした形としていかなければいけないと思います。
 2006年から2019年12月末まで、250のケースにジョブコーチ支援で関わってきましたが、特にこの10年の雇用現場の様変わりはとても大きく、これまでのジョブコーチ支援というものを整理し直さなければいけないと痛感します。
 振り返りをしっかりと行い、整理し言語化していくことは、ジョブコーチを仕事としてこれまでやってきた私たち法人としてしなければならない事だと思います。
 そして、少しでも次のジョブコーチのあり方を発信していけるようにしなければと……。

 2019年もあと少しで終わります。
 今年一年、また、新しい出会いがたくさんありました。
 私たちに関わっていただけたすべての人にお礼申し上げます。
 2019年12月31日

「修先生、平成元年卒業38HRの○○です。わかりますか?先週、○○、××、△△と同窓会をやりまして先生に会いたいという話になりました。先生は今どちらにいますか?」  3月末、そんなメッセージが突然飛び込んできた。
 もう30年前の卒業生。彼女たちも50歳目前。
 彼女たちが卒業した翌年、家庭の事情で学校を辞め地元に帰ってきてしまったために、ほとんど音信不通になっていた。  その後、当時のクラスのライングループがつくられた。

「子どものお弁当作りが…」
「大きな手術しました」
「三人の男の子が…」
 僕の手元にあるのは、30年前の卒業アルバムと、断片的な当時の記憶。
  何時も眠そうな顔をしていた奴。
 しらーとした顔をしていた奴。
 こちらを心の内をしっかりと見透かしているような奴。
 良い子の仮面(?)をかぶっていた奴。
 色々としでかしてくれた奴…。
 教師と生徒のだましあい…。感情のぶつけあい…。
 それは教室であったり、グランドや体育館や、職員室であったり…。
 それらが一つ一つ蘇ってくる。

 この30年。  色々なことがあったんだろう、と思う。  勿論、僕にしてもそうだ。
 あの頃の事を思うとどうして、こんなに胸がギュッとなるのはなぜだろう?
 そんな思いを先月末以来、感じている。

 30年前に、今の自分の姿など、誰も想像できなかった。
 ただただ、単調に思える毎日の繰り返し。
 何気ない日常。  そんな中で、折々、迫り来る選択や判断。
 多くの人との出会い・別れ。
 突然、ふりかかる人生を一変させるような出来事。
 大小様々な「その時」を繰り返しながらたどり着いた「現在」。
 想像できないことがとてもたくさんあるからこそ「あの頃」は大切だったんだと、今にして思う。
 先のことなど誰もわからない。
 年月を経る毎にそのあたりまえの重さを知っていく。
 そして何気ない毎日の愛おしさを。

 それでも、一生懸命に毎日と向き合ってきたからこそ、お互いに会いたいと思えるのだろう。
 同じ時間を与えられた者同士。よく、頑張ってきたよね! と。
 そんな風に、自分自身を褒めてあげたいのかもしれない。 

 彼女たちに会いたいと思う。
そして、30年という時の流れを色々と聞いてみたいし、聞いてほしいと思う。

 この本を手に取ったのは今から15年ほど前のこと。
 その頃は、ブラインドランナーの伴走者として、一緒に練習したりレースにでたり……。ランナーと伴走者との関係についても色々と考えていた頃、そんなときに、この本と出会った。

 年末、映画が公開された。
 「愛しき実話」というサブタイトルに何とも言えない違和感を覚えながら、この正月に映画館に足を運んだ。
 2時間の間、笑うこともなく、涙を流すこともなく、結局何も心動かされることなく劇場をあとにした。
 方やYahoo!レビューなどでは、かなりの高評価。自分の感覚がおかしいのか、と思ってしまったり。
 そんなこともあり、本棚に眠っていた本を引っ張り出してみると、当時のドッグイヤーが何とも懐かしく思えてきた。

 映画と原作は全く別モノ、というか、結局は2時間程度の中に収め、メッセージ性のあるものにするのは、無理がある、というのが一番。

 本を読んでいる途中、何度も何度も止まってしまった。
 勿論、今の仕事と重なる部分も多いからこそ、余計に時間がかかってしまったとは思うが、15年前もやはり、なかなか進まずに立ち止まった記憶が蘇ってきた。

 なぜ、時間がかかるのか? それは簡単には答えがでない問いかけを突きつけられるから、その都度、立ち止まり、自分の生き様やこれまで、そしてこれからに目を向け、考え…。結局、また、振り出しに戻る…。そんなことを繰り返しているからなのだとおもう。
 そんな簡単に、そんなきれいに、まとめられないでしょ? と。
 本のサブタイトルも「筋ジス・鹿野靖明ととボランティアたち」であり、その日々は壮絶なものだったと思うし、自分にはどうしても「愛しい」という言葉が出てこなかった。
 だから、自分には映画を観ても心が動かなかったのだと思う。

 映画の受け止め方はひとそれぞれ。
 ただ、この映画をきっかけに、原作に手を伸ばす人が増えて、改めて「障害者」「健常者」、「支える」「支えられる」、「当たり前」「フツー」ということを考えるきっかけになればと思う。
 そして、自分もこうした問いに対する答えを探し続けていくんだろうなぁ、と思う。 

「生きるのをあきらめないこと。
そして、人との関わりをあきらめないこと。
人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろう」
(『こんな夜更けにバナナかよ』渡辺一史著 「エピローグ」より)

「鹿野の背負っている『障害』の中身が具体的に見えてくることで、無用な気遣いは不要だし、どういう場面で助ければいいのかという、『フツウの接し方』や『心の準備』もできてくる。
 カラダの扱いがうまい人は、心の扱いにもよく気がまわるのかもしれない。少なくとも、人が助けを必要とするとき、的確にタイミングよくさっと手が伸びるというのは、ただ立ちすくんでしまうことの多い私には、やはり『すごいことだ』と思ってしまう。」p98

「健常者どうしであれば可能だった『拒否』や『対立』も、障害者を前にすると過剰な『やさしさ』や『思いやり』を無理して演じがちな面があるのだろう」p124

「重度障害をもつ自立生活者たちというのは、いわば、『他人と関わること』を宿命づけられた人たちである」 p176

「オマエらはいいよ。たまたま脚光を浴びて、周りに人が集まって応援してくれる人もいっぱいいる。でも、オレみたいに地味な障害者は、一生ここにいるしかないんだ」 p178

「夢みるだけで、たやすく夢が手に入るなら運動はいらない」p200

「ある日、ある瞬間から、人間同士が劇的に理解し合えるようになることは、おそらくあまりない。対立や和解を何度も繰り返しながら、振り返るといつのまにかわかりあっていた、認め合っていた、というのが本当のところではないだろうか」p267

「『障害は個性である』という言い方があるが、その意味ではまさにそうなのだろう。筋ジスは鹿野の個性であり、大きな魅力なのだ。しかし、それは『障害』や『筋ジス』というものに、はじめから無条件に備わっている個性なのではなく、鹿野がこれまでの自立生活を通して、血肉としてきた経験が培った個性」p304

「『よかれ』と思ってやったことが、そうでなかったときの驚き、やさしさが裏目に出、アドバイスが裏目に出、互いの意志と意志、気持ちと気持ちがチグハグに食い違う瞬間。そのとき人は『他者』というものの存在を思い知らざるをえないのだ。自分とは違う存在。自分の思い通りには決して動かない他者の存在。あくまで自分を正当化して相手を批判するか、たしなめるか、見下すか、切り捨てるか、それともあくまで他者を理解しようと歩み寄るのか……」p383

「『障害者を介助すること』が、自販機でジュースを買うのと同じ、喫茶店でコーヒーを飲むのと同じくならないと完成形じゃない。完成形はそこなんですよ。そういうことなんでしょ。シカノさんがやりたいことは」p397

『こんな夜更けにバナナかよ』 渡辺一史著 北海道新聞社



 法人のブログを書き始めた2008年以来、恒例となっていた12月31日のブログ、一年前の今日は、書き綴ることができずにいました。
 それだけ翔太君の死は大きな出来事でした。
 昨年から今年一年、行きつ戻りつ、右往左往しながらも、少しずつ「次」に踏み出すべき足の置き場を探っていたかのような私たちでした。

 やりたかったけれどやれなかったこと。
 やったけれどうまくいかなかったこと。
 たくさんのうまくいかないことの中に、時々おとずれる心の救われるできごと……。

 今から10年前の12月31日のブログを読み返していました。その時に登場する宮沢章二の『流れの中で』を読んで思います。
 あの頃と少しも変わっていないのだということ。
 そして、何とも言えずにホッとする自分がいることを。
 そして、これからも変わり続けることなく、不器用であっても、ゆっくりと丁寧に自分たちの道を進んでいきたいと思います。

 私たちに関わってくださった方々に心からの感謝を込めて。
2018年12月31日

『流れの中で』  宮沢 章二

聞けるときに 聞いておかないと
決して聞けないコトバがある
言えるときに 言っておかないと
再び言えないコトバがある

 つかめるときに つかんでおかないと
 死ぬまで無縁の宝がある
 みがけるときに みがいておかないと
 光らぬまま朽ちていく 宝がある

得たものを失う その数よりも
得られずに失われたものの 数の多さ
わずかの知恵と わずかの努力が
それに触れ得たかもしれないのに……

去年の10月23日、27歳という若さで突然この世を去った水野翔太君。
あれから一年が経ちました。
事務局長としてこの法人を最初から支え続けてきた水野さんに降りかかったこの不幸な出来事は、くらしえん・しごとえんを大きく揺るがせました。
悲しみの中にあって、人と関わることを避け、引きこもっていく水野さん。
この法人から去ることを何度も何度も考えていました。
水野さんが揺れるたびに、くらしえん・しごとえんも大きく揺れてきました。

行きつ戻りつを繰り返しながらの一年でした。
それでも一周忌を過ぎた今、水野さんはくらしえん・しごとえんの事務局長として、また、ジョブコーチとして前に進むことを決めました。

「時間というのが一番の薬だった。けれど、ただ時間が経つことだけではなかった。
自分が働く中で、人と関わって、社会とつながっていたからこそ、『時間』という薬が効いてきた」と水野さんは言います。
そして
「ただ、ひきこもってただ悲しんでいるだけでは、絶対に駄目だったと思う」とも。

この一年。
10年以上にわたって彼の働くことに関わってきた僕にとっても、大きな穴が空いた状態が続きました。
それでも、自分自身に言い聞かせるように、養成研修や、高校生・特別支援学校の生徒、支援者……色々な人の前で水野翔太君の人生を話してきました。

去年。翔太君の葬儀が行われていた時、僕は養成研修のために滋賀に向かう車の中にいました。
そして今年。去年と同様、滋賀で開催していた養成研修の最終日に一周忌が執り行われました。

研修の最終日の「ケースから学ぶジョブコーチ支援」のコマ。
最後の最後のケース紹介で、翔太君の話をとりあげました。
「働くことをあきらめないこと」「働けないと誰が決めるのだろうか?」と。

スライドの最後に書いたメッセージは、水野さんへのメッセージでもあり、自分自身やこの法人へのメッセージでもあり、自分達に関わってくれているすべての人への思いです。


努力をしても報われないことがたくさんあります。
どんなに頑張っても期待通りの結果が出ないことがあります。

それでも、次につながる「何か」は必ず残ります。

この世の中、うまくいかないことや
理不尽なこともたくさんあります。

「明日」が突然奪われてしまうこともあります。

それでも、明日に向かうことが大切です。

命ある限り、自分なりに生きていくことが大切です。

でも、一人で頑張るのは大変です。

だから、困ったときは誰かに助けてもらってください。

そして、誰かが困っていたら助けてあげてください。

「明日に向かう」(PDF937KB)※PowerPoint資料抜粋)


 

もし、次男が育っていれば今日は27歳の誕生日だった。

27年前の今日。同じように気持ちの良い青空の下で、ソフトボール部の顧問をしていた僕は、西部地区予選に出かけていた。試合は予定通り(?)1開戦ですぐに負けてしまい、急いで産院に向かった。

直前のエコーでも元気に動いており、心音もしっかりしていたから、二人目はちゃんと生まれる、と信じて疑わなかったから、朝一番の試合が終わった後に産院に向かうことにしていたのだが、産院に着いても、赤ん坊の泣き声は聞こえず、僕の目に飛び込んできたものは全身麻酔で眠っている妻の姿と、その横で、チアノーゼの状態で蘇生措置を施されている赤ん坊だった。

「もう、結構です」

先生の話を聞いた後、蘇生措置を打ち切ってもらうように伝えた。

赤ん坊はあたりまえに生まれてあたりまえに育つ、と何の疑問も持たずに思っていた僕にとって、長男そして次男共に、大きな泣き声や産院でおっぱいを飲む姿をみることはできなかった。

一人で諸々の手続きをして、一人で火葬場に出かけた。

色々と考えていた子どもの名前だったが、一度もその名前を呼ぶこともなく、墓石に刻むための名前となった。

もし、生きていたら、どんな生活が繰り広げられただろうか?「れば・たら」は勿論ないけれど、それでも、ふとしたときに色々と考えてしまう。

今、こうしている時も、世界のあちらこちらで新しい命の誕生と同時に、様々な理由で命が奪われているのだと。

明日も今日が続いていると自分の幸せを思わないではいられない。そして命ある限り、自分の生を精一杯生きよう、と思ってしまう。