この本を手に取ったのは今から15年ほど前のこと。
その頃は、ブラインドランナーの伴走者として、一緒に練習したりレースにでたり……。ランナーと伴走者との関係についても色々と考えていた頃、そんなときに、この本と出会った。
年末、映画が公開された。
「愛しき実話」というサブタイトルに何とも言えない違和感を覚えながら、この正月に映画館に足を運んだ。
2時間の間、笑うこともなく、涙を流すこともなく、結局何も心動かされることなく劇場をあとにした。
方やYahoo!レビューなどでは、かなりの高評価。自分の感覚がおかしいのか、と思ってしまったり。
そんなこともあり、本棚に眠っていた本を引っ張り出してみると、当時のドッグイヤーが何とも懐かしく思えてきた。
映画と原作は全く別モノ、というか、結局は2時間程度の中に収め、メッセージ性のあるものにするのは、無理がある、というのが一番。
本を読んでいる途中、何度も何度も止まってしまった。
勿論、今の仕事と重なる部分も多いからこそ、余計に時間がかかってしまったとは思うが、15年前もやはり、なかなか進まずに立ち止まった記憶が蘇ってきた。
なぜ、時間がかかるのか? それは簡単には答えがでない問いかけを突きつけられるから、その都度、立ち止まり、自分の生き様やこれまで、そしてこれからに目を向け、考え…。結局、また、振り出しに戻る…。そんなことを繰り返しているからなのだとおもう。
そんな簡単に、そんなきれいに、まとめられないでしょ? と。
本のサブタイトルも「筋ジス・鹿野靖明ととボランティアたち」であり、その日々は壮絶なものだったと思うし、自分にはどうしても「愛しい」という言葉が出てこなかった。
だから、自分には映画を観ても心が動かなかったのだと思う。
映画の受け止め方はひとそれぞれ。
ただ、この映画をきっかけに、原作に手を伸ばす人が増えて、改めて「障害者」「健常者」、「支える」「支えられる」、「当たり前」「フツー」ということを考えるきっかけになればと思う。
そして、自分もこうした問いに対する答えを探し続けていくんだろうなぁ、と思う。
「生きるのをあきらめないこと。
そして、人との関わりをあきらめないこと。
人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろう」
(『こんな夜更けにバナナかよ』渡辺一史著 「エピローグ」より)
「鹿野の背負っている『障害』の中身が具体的に見えてくることで、無用な気遣いは不要だし、どういう場面で助ければいいのかという、『フツウの接し方』や『心の準備』もできてくる。
カラダの扱いがうまい人は、心の扱いにもよく気がまわるのかもしれない。少なくとも、人が助けを必要とするとき、的確にタイミングよくさっと手が伸びるというのは、ただ立ちすくんでしまうことの多い私には、やはり『すごいことだ』と思ってしまう。」p98「健常者どうしであれば可能だった『拒否』や『対立』も、障害者を前にすると過剰な『やさしさ』や『思いやり』を無理して演じがちな面があるのだろう」p124
「重度障害をもつ自立生活者たちというのは、いわば、『他人と関わること』を宿命づけられた人たちである」 p176
「オマエらはいいよ。たまたま脚光を浴びて、周りに人が集まって応援してくれる人もいっぱいいる。でも、オレみたいに地味な障害者は、一生ここにいるしかないんだ」 p178
「夢みるだけで、たやすく夢が手に入るなら運動はいらない」p200
「ある日、ある瞬間から、人間同士が劇的に理解し合えるようになることは、おそらくあまりない。対立や和解を何度も繰り返しながら、振り返るといつのまにかわかりあっていた、認め合っていた、というのが本当のところではないだろうか」p267
「『障害は個性である』という言い方があるが、その意味ではまさにそうなのだろう。筋ジスは鹿野の個性であり、大きな魅力なのだ。しかし、それは『障害』や『筋ジス』というものに、はじめから無条件に備わっている個性なのではなく、鹿野がこれまでの自立生活を通して、血肉としてきた経験が培った個性」p304
「『よかれ』と思ってやったことが、そうでなかったときの驚き、やさしさが裏目に出、アドバイスが裏目に出、互いの意志と意志、気持ちと気持ちがチグハグに食い違う瞬間。そのとき人は『他者』というものの存在を思い知らざるをえないのだ。自分とは違う存在。自分の思い通りには決して動かない他者の存在。あくまで自分を正当化して相手を批判するか、たしなめるか、見下すか、切り捨てるか、それともあくまで他者を理解しようと歩み寄るのか……」p383
「『障害者を介助すること』が、自販機でジュースを買うのと同じ、喫茶店でコーヒーを飲むのと同じくならないと完成形じゃない。完成形はそこなんですよ。そういうことなんでしょ。シカノさんがやりたいことは」p397
『こんな夜更けにバナナかよ』 渡辺一史著 北海道新聞社